「歌舞伎町近いしさ、兄ちゃん、ちょい事務所行こうか?」 別に芸能関係のスカウトではない。私が家の近郊で携帯電話を弄っていたら、白塗りのベンツが目の前に止まり、何事かと思ったら中から厳つい面をした男が出てき、そして私にこう云い放った訣である。人生で何度か最高の危険があったとしならば今がその瞬間である。明らかに彼奴は暴力団関係者かその類だ。私は今迄扱ったこともない程の丁重な謙譲語を駆使し、なぜ私がそんなことをせねばならないのかと彼に問うた。最早私の周りにはこの人種と同じ人間が三人陣形を組んでいる。一体全体世界の終わりである。「兄ちゃん、サツやろ?なぁ?ハラ割れや?なぁ?」・・・どうも彼に尋ねるに、昨日深夜二時間も此処で長電話をし、やれ、それに加え、時折此処を何度も通りかかってる私を彼は非常に不審に思っていると云う訣である。「なんでやねん?」と言われ、私は其処のマンションの地下室に在住しており、電話をする際は電波が悪いので必ず屋外に出ねばならず、昨夜はそう云う次第であなたの家の前で近所迷惑をしていた訣で、さらに今日は其処のコンビニエンスストアで雑誌の立ち読みをした後、何とも部屋に帰りたくなかったから雨宿りにこのマンションの前で携帯電話を弄っていたのだと彼に主張した。だが彼には当然通る訣がない。なぜなら彼の堅い疑義に私みたいな論理が通じる筈がないからである。私は観念して、こう云う時の為にあるのである、早稲田大學の学生証を彼に手渡し、警察や競合団の類ではないことを証明した。学生を証明するから学生証なんだなと変に安堵していたらば、彼は「これ借りていい?」と私の学生証を奪おうとするではないか。成程、確かに学生証は裏社会では非常に高く売れるらしいが、いや、そんなことはどうでもいい。「それは出来兼ねます」、私はこう断言してその男が学生証を私に帰すのを毅然と待ってると、やっと返してくれた。何にしたって私は清廉潔白である、どうやら私を疑うことに飽きたか、「兄ちゃん、家まで送らせろや」と言われ、私は其処から歩いて二十歩の自宅までその男と並んで歩いた。まるで新しい友人ができた爽快な気分で、だ。その男は私の部屋まで付いてくる気は無かったらしい、ちょっと入って貰いたいと思ったのだけれど、さすがに後が怖いので、私は玄関で「もう結構です」と断り、その迷惑を詫びた。男は「俺はシロの奴には暴力振るわん」と云い「今度逢ったときは会釈ぐらいしろや」と吐き捨て、「じゃぁな」と手を振って帰って行った。私が終始口元の笑みをマフラーで隠していたことはとてもぢゃないが、誰にも言えない秘密である。・・・・追記:「誰と電話してたんや?」と問われる。私が電話していたのは警察関係者ではない。「好きな娘か?」「・・・はい。そうです。」、一体全体暴力団の男と云うのはどうでもいい質問がやたらに可愛いのが不思議であった。